七年間のかくれんぼ
追加のワインがきたため再度乾杯をしたあとの二人は穏やかな会話を楽しんだ。
会話がふと途切れ、いつものクセでヒューバートが懐中時計を出して時間を確認すると二時間も店にいることに気づき、そしてアリシアの異変にも気づいた。
(”これ”に気づかないとは、浮かれていたか)
普段のアリシアはとても姿勢がいい。
椅子に座るときはピンッと背筋を伸ばし、長時間でもその姿勢が崩れることはない。
しかし、いま目の前のアリシアの頭はぐらぐらと前後左右に揺れている。
さらに目元は赤く染まり、いつもは理知的な翠の瞳がとろんと揺らいで眠そうだった。
ジッと自分を見るヒューバートの視線に気づいたアリシアが首を傾げ、
「もう一本飲みますか?」
「いや、もうやめよう。君は酔っている」
「酔って、いますか?」
『はて?』と聞こえてきそうな感じに首を傾げるアリシア。
すっかり酔っているが、酔っ払いが「酔っている」と自己分析できるケースは少ない。
アリシアもそのパターンなのかと、ヒューバートが意外に思っていると、
「酔っ払うのってこんな感じなんですね。お酒を飲むのも初めてで……ふふふ」
「初めて?」
「そうですよ。こんなに美味しいとは思いませんでした」
もう一杯ください、というようにアリシアがワイングラスをヒューバートににゅっと差し出す。
ヒューバートが首を横に振ってワインの瓶をアリシアから遠ざけると、アリシアがぷうっと膨れた。
普段のアリシアからは想像もつかない感情の豊かさに、もう少し飲ませてもと一瞬考えた自分をヒューバートは深く恥じた。
「……もうやめたほうがいい」
「喉が渇いたんだもん」
(完全に酔ってる、”もん”って何だ?)
普段のアリシアからは決して聞けないであろう、少し子どものような口調と語尾。
可愛いなんて呑気なことを考える自分を叱咤し、水を頼もうとヒューバートは周りを見渡したが誰も彼も忙しそうで、
「水をもらってくるよ」
自分で水を取りに行った方が早いと判断したヒューバートが席を立つと、
「ダメ!どっか行っちゃイヤ」
「アリシア……それは、卑怯だよ」
酔って熱をもった翠の瞳に涙が盛り上がる。
ヒューバートが逆らえるわけもなく、ふたたび席に座る。
給仕が気づいてくれることを焦れて待ちながら、アリシアの目が焦点を失ってぼうっとし始めたところで”水を飲ませるべき”と判断して席を立つ。
テーブルが視界から消えるのは少しだけ。
すぐに戻るつもりで、実際にすぐに戻ってきたのに、
「……どうして、こうなった?」
戻ってきたヒューバートの目に入ったのは、ワインの入ったグラスを嬉しそうに揺らすアリシア。
その手つきは不慣れと酔いで実に危なっかしいが、酔っ払っているアリシアはニコニコとご機嫌だった。
「店員さん」
(店員って……俺のことか?)
周囲を見渡して、自分を給仕と勘違いするアリシアへの反応にヒューバートが困っていると、
「この席に座っていた方をご存知ありませんか?」
アリシアはヒューバートに『ヒューバート』の所在を訊ねる。
完全に酔っているアリシアにヒューバートは苦笑して、「グラスを交換します」と言ってワイングラスと水を入れたグラスを取り換える。
「まるで水みたいね」
見ず知らずの者に対応するアリシアは肩の力が抜けていて、ほんの少し幼く見えるアリシアに婚約した頃のアリシアが重なる。
「ヒューバート様はどこに行ったのかしら」
寂しそうにつぶやかれた独り言。
自分を探してくれるアリシアが、自分を必要としてくれているようで、ヒューバートは少しだけ嬉しくなる。
「すぐに戻られますよ。それまでここに居てもいいですか?」
「お仕事はいいの?」
「美しい淑女の護衛も立派な仕事です」
お道化た口調が楽しかったのか、アリシアがコロコロと笑う。
自分ではない者には気軽に笑顔を向けるアリシアに、嫉妬で胸がヂリッと焦げる。
「淑女だなんて、私はもう子どもじゃありませんわ。子どももいるのよ、もう直ぐ七歳の男の子」
「七歳ですか、可愛い盛りですね」
「あの子は産まれた瞬間から今日までずっと可愛い盛りですわ」
アリシアの顔が少女めいたものから母親に変わる。
「あの子はいまは元気ですが、産まれたときは他の子と比べると体が小さくて。赤ちゃんの頃はたくさん病気をしました。高い熱を出せば夜通し看病をして、咳き込む姿に私も胸が痛くなったものです」
アリシアの母親としての苦労話はヒューバートには決して聞けないもの。
自分ではない者にはこうして話しているのにと嫉妬の気持ちがわいたが、縁もゆかりもない者とのここだけの会話だから話しやすいのだろうと理解もできた。
「父親がいないから、私が何とかしないとと毎日気を張っていました」
ヒューバートの事情などアリシアとパーシヴァルからしてみれば関係ない。
絶えず探し続けていたと聞いたところで、アリシアからしてみれば反応に困る。
夜通し子どもを看病するアリシアの苦労も知らない、役立たず。
子どもができたと告げたアリシアの、ただ一度だけ伸ばした手すらも拒否した無責任な男。
子どもに父親として接することを認めたのは、それがヒューバートに知らせた義務だとアリシアは思っている。
だから心からヒューバートをパーシヴァルの父親とは思っていない。
この先パーシヴァルが熱を出しても、アリシアはヒューバートを頼らず自分でどうにかするのだろう。
頼ってくれなんて、書類上ですら父親ではない自分には何も言えない。
「子どもを産んだことを、後悔していますか?」
ヒューバートが聞いても絶対に答えをもらえない質問。
だまし討ちのようなやり方をどうかと思いつつも、これを聞ける機会はもう二度とないかもしれないという焦燥感がヒューバートの背中を押した。
パーシヴァルがいなければアリシアの人生は違ったのは確かだ。
「後悔、ですか?」
実際にパーシヴァルはいるのだから「いない人生」を聞くなど無意味なのかもしれない。
そう思ってしまうほど、アリシアの表情は虚を突かれたような感じだった。
「愚痴を零してしまったので、そう思われたのでしょうか?でも、それは誤解です。あの子を産んだことはもちろん、結婚したことも後悔はしていませんよ」
「でも、周りの人は一人で子どもを産むことを反対したでしょう?」
「家族のことですか?私に家族はパーシヴァル以外にはいませんもの。血縁にあたる祖父はいますが、祖父にとっての私は孫というよりも『世話が必要な若者』でしょう。七年もあの街にいれば分かります。祖父と私の母の間に何があったかは知りませんが、祖父にとって母は”いない子”だったのです。いない子が産んだ私を孫として扱いかねるのは当然です」
私も母と同じですし、とアリシアが自嘲的に笑う。
「私は妻にしていただいたので妾ではありませんが、父親のいない子を産んだところは母と同じなので。祖父は私を到底理解できなかったでしょう」
アリシアが自分の母と同じということは?
ヒューバートのやったことは、長い間軽蔑し、嫌悪し、憎んできた元子爵と同じということ。
自衛のために咄嗟に反論しかけた自分をヒューバートは抑える。
自分がどう思うかではない、アリシアがどう思うかなのだから。
「私は私の意思であの子を産みました。それが私の願いだったからです―――家族が、欲しかったんです」
「すまなかった」
「ふふふ、確かに子を持つ母に失礼な質問でしたね。でも話したらスッキリしました」
「それは……よかったです。本当にすみませんでした」
「もう謝らないでくださいな。最近謝罪を受けてばかりで……すべては私の選択、謝罪していただく必要などありませんのにね」
(”すべては私の選択”、か)
謝ってすむ、すまないではない。
謝る資格すらも自分にはないのだとヒューバートは思い知らされた。
「ヒューバート様、遅いですね」
「そう、ですね」
「やっぱり怒っていらっしゃるのかもしれないわ」
「”怒る”……なぜ?」
なぜアリシアが自分を怒っていると思ったのか。
「あの子を産むことについて、好きにして構わないと言われて……私は言葉の裏に隠されていた意図に気づかない振りをしてあの子を産みました。これは私の選択、ヒューバート様は関係ないと鈍感なふりをして……結局は私の個人的なことに巻き込んで、あの子の存在を押しつけてしまったから」
「彼が勝手に子どもに会いにきたのに?」
ヒューバートの言葉にアリシアは首を横に振った。
「ヒューバート様に、子どもの父親になるかどうかの選択肢を私は与えませんでした。人道的理由と倫理観で、私はヒューバート様に父親になることを押しつけたのです」
「彼には子どもの存在を知っても無視するという選択肢がありました。そちらを選ばず子どもに会いにきたということは、自ら進んで子どもの父親になるという選択をしたと思えませんか?」
酔っているアリシアに他人の振りして言う台詞ではない。
しかし、それでもヒューバートは言わずにはいられなかった。
「……公園に行きましょうか」
アリシアの席の傍に立ちながら話すヒューバートは人目を引いた。
アリシアの深刻な表情も手伝って、周囲の視線が気になってきたヒューバートは店を出ることを提案した。
「ここにいないと……ヒューバート様が探す手間をかけてしまうかも」
「私の意見としては……そんな男、困らせてやればいいんです」
「でも……」
「向かいの公園なら店からもよく見えます、直ぐに見つけられますよ」
窓の外にある公園を指さし、明るい園内がよく見えることを確認したアリシアは納得して席を立つ。
「入口で待っていてください」と告げて、手早く会計をすませてアリシアの元に戻って公園に行く。
園内はライトアップされて明るかったが、夜の暗さは払えきえずに互いの表情は少し見えずらい。
「まるでかくれんぼね、やっぱり見つけにくいかもしれないわ」
「あなたを見つけるためなら何年でも探し続けると思いますよ」
そうかしら、と呟いたアリシアが石のタイルにつまずく。
短い悲鳴をあげたアリシアを支えて、ヒューバートはエスコートするように腕を差し出す。
「よろしければ」
「ありがとうございます、でも結構ですわ」
親し気な会話をしている割にきっぱりとした拒否。
意外に思ってヒューバートが首を傾げると、
「あなたはヒューバート様じゃないもの、似ているけれど」
「あなたを傷つけたクソ野郎に似ているなんて心外なのですが……もし私が本当のヒューバート様ならば、私にエスコートさせていただけましたか?」
意地の悪い質問だと思ったが、聞かずにはいられなかった。
「さあ、どうでしょう」
アリシアの言葉は答えになっていなかったが、少女のように照れた微笑みが答えになった。
結婚式の日に祭壇の前でみた、恋い慕うような微笑みにヒューバートは泣きたくなった。
「それでは、歩くのは危険なのでベンチに座って待ちましょう」
「そうね」
「夜は冷えるのでこれを羽織っていてください」
「そうね」
「……眠いですか?」
「そうね」
返事が”そうね”の一辺倒になり、酔いが回ってうとうとし始めたアリシアにヒューバートは笑う。
「危機感が足りないと言いたいが……俺がいるから、警戒心が緩んだと思っていいのかな」
ヒューバートは自分のジャケットを脱いでアリシアに羽織らせてしっかり包む。
ジャケットの温もりが本格的に眠気を誘ったのか、アリシアの目が静かに閉じられる。
「かくれんぼ……探して……」
アリシアの声が次第に小さくなり、やがて寝息にかわる。
寝入ってしまってもアリシアの背筋はすっと伸び、誰にも頼らないというふうにきれいな姿勢で座っていた。
「すまない」
ヒューバートは謝罪をすると、そんなアリシアの体に腕を回してぎゅうっと抱きしめる。
「みーつけた」
腕の中のアリシアの体から力が抜け、体重が自分の体にかかるのを感じながらヒューバートは静かに涙を流した。
酔夫人のひとりごと
まるで梅雨のような天気ですね。
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