過去の選択が胸を刺す。誰かの“代わり”として生きる永琉の声が、一真の記憶を揺らす。「俺は君が……」と言えなかった後悔が、静かに沁みていく。
永琉との婚約話は、一真自身が望んで壊した。
愛琉への恋心を自覚した一真は十和に婚約は愛琉としたいと何度も訴えたが、十和を筆頭に親族に反対され続けた。それが悔しくて一真は永琉と会うときは愛琉とも会いたいと永琉に言った。
(愛琉だって一緒に遊びたいだろう……って、卑怯な言い方だ)
永琉だって馬鹿ではない。
一真が自分ではなく愛琉を思っていることにすぐに気づいた。だから永琉はわざとドタキャンするようになった。「永琉がいないのでは仕方がない」と一真が心置きなく、誰にも咎められず愛琉とだけ会えるように。
一真だってそれに気づかないほど鈍感ではない。
母親の反対のことで苛立っていたところにこんな気遣いをされて苛立ちは加速。「どうして家にいなかったと?」と永琉に問うような真似をして、それに対して「高松の小母様に頼まれたことがあった」と一真には怒れない理由を出されてさらに苛立って……。
そんな子どものやっていることに十和はすぐに気づき、一真が二十歳になったら永琉との婚約を発表をすると突然言い出した。もともと永琉が十六歳になったら婚約を発表すると決まっていたのだからと、一真の退路を断つ不意打ちだった。
婚約発表のパーティーは規模も大きく、準備で高松家も梅宮家も天手古舞。ようやく隙を見つけて梅宮家に出向いた一真が、双子の父親に「永琉さんではなく愛琉さんと結婚したい」と言ったのは婚約発表の二週間前だった。
これには愛琉の協力もあった。
「一真さんが永琉と結婚したらお義兄さんって呼ばなきゃ」と寂し気に言った愛琉に告白し、二人は恋人同士になっていた。
―― これで私たちが婚約しても皆が不幸になるだけです。
愛琉への恋心と婚約発表への焦りが先に立ち、永琉への気遣いを忘れていたことに一真が気づいたのは一真の非礼に怒る祖父・颯流を宥める永琉の静かな声だった。
冷静になって自分の非道を恥じることはできても、やったことは取り返しがつかない。
あのとき永琉がどんな表情をしていたのか一真は知らない。想像しかできない。「永琉はさがりなさい」と優しくかけられた颯流の声に縋るように永琉は部屋を出ていき、一真はその表情を見ることはできなかったから。
――― 高松さん、私も失礼しますよ。
それまでは「一真君」と親しげに呼んでくれていた颯流の声は冷たく、一真に向ける目は呆れていた。怒る価値もない。十和が伸二に向けるのと同じ目。
それが一真が颯流を見た最後になった。
颯流はあのあと直ぐに家督を双子の父親・颯一(そういち)に譲って北関東に移った。永琉もそれについていった。
一真が永琉と再会したのは三年前、颯流の葬儀の場だった。
故人である颯流の遺志で、異例ながら喪主は永琉が務めた。
死に水をとったのも永琉だから多くが納得していたが、颯一たちは憤慨した。愛琉は「体調がよくないから」、颯一たち夫婦は「愛琉が心配だから」を理由にして葬儀が終わると早々に帰っていった。まだ参列者が多く残る場での信じられない行動にその場はざわついたが、永琉は凛とした姿でその場に立ち続け、祖父のために来てくれた人に対して丁寧に感謝の気持ちを伝え続けていた。そんな永琉の姿に参列者からは「永琉さんがいれば白梅庵は安心だ」という声があがったのは自然なことだった。
人徳があった颯流を慕った者は多く、参列者が多かったため永琉の顔にも疲れが出はじめていたが、永琉はずっとそこに立ち続けて最後までつらそうな表情を見せなかった。
その姿に一真の中で、祖母の葬儀でしっかり立っていた永琉の姿が重なった。
一真は何も見えていなかった。
大好きな祖母を安心させたい一心で気丈に振舞う永琉の姿を、『永琉は強いから大丈夫』なんて簡単な言葉で片づけてしまっていた。
その場に身内しかいなくなると、永琉はようやく泣いた。
その震える肩に触れて慰めたいと思ったが、愛琉の婚約者としてそこにいた一真には近づくこともできなかった。
◇
「一真、梅宮が今日の午後に来ることになっている。橘家の広弥(ひろや)君がくるから予定を確認してお前も同席してくれ」
「……分かった」
「……お前は……彼と、その、良好にやっていけるか?」
橘広弥の名に一真の反応が遅れたため、それに気づいた伸二の表情が気遣うものになる。
颯流の葬儀のとき、ずっと永琉を傍で支え、泣いた永琉を慰めたのは広弥だった。
梅宮家の分家・橘家次男の彼は永琉と結婚して梅宮家の婿養子になり、将来は白梅庵の社長になる予定だったが、永琉が一真と結婚したためその話は白紙になった。そして親族の話し合いが行われ、広弥が橘姓のまま白梅庵の社長として銀行関係の娘と結婚することになりそうだと一真は聞いていた。
「……みんな大人だから大丈夫だよ」
颯一は無理やり事業の規模を拡大したため白梅庵はいま経営が厳しい。高松家と蜜月関係であることから受けられた融資も多く、白梅庵の力量を遥かに超えた借金は雪だるま式に増えてしまっていた。
いまの白梅庵には信用がなく、高松家の後ろ盾でなんとか経営ができている状態だから永琉は一真の花嫁になることを選んだ。
「あと、柳川家から結婚式の招待状がうちに届いている」
「……それ冗句? 空気を軽くしようとした?」
信じられないという表情をした一真に伸二は苦笑し、首を横に振った。
「付き合いだ、仕方がない。俺と母さんと出席するが、お前たちはどうする?」
「寝取られた元婚約者が参列するのは変だから俺たちは遠慮するよ」
その結婚式の花婿は柳川流の後継ぎの柳川壮一で、花嫁は愛琉だ。
愛琉が一真の花嫁になれなかったのは、愛琉が壮一の子どもを妊娠したから。正確には愛琉の妊娠が分かり、その候補者は柳川壮一を含めて七人もおり、男たちと胎児のDNAを検査して分かったとのことなのだが、一真自身はそのDNA検査に参加していない。
一真は愛琉と関係をもったことがないため、他の男たちのように避妊に失敗したかもと考える必要もなかった。
愛琉は一真と関係をもちたがったが、一真は結婚まで愛琉と関係をもとうとは思わなかった。
最初の頃は体が弱い愛琉に対する気遣いと、大事にしたいという純粋な想いで愛琉の誘いをかわしていたが、ここ数年は「体が弱い」と「大事にしたい」と言い訳に愛琉の誘いから逃げていた。
一真は愛琉に対して『婚約者』という義務感しか感じられないでいた。
そんな一真の態度が愛琉の浮気の理由なら一真も申しわけなさを感じたかもしれないが、警察も交えた事情聴取中に愛琉が述べた浮気の理由は「みんな普通にしているじゃない」というものだった。
(確かに浮気をしているやつは多いが……俺が抱かないから代わりにってなんだ?)
したいと思ったときに婚約者が無理だというから代わりに他の男を探した。「そんなことはみんなしている」「奥さんが妊娠したから愛人とってよく聞く話じゃん」と本気で首を傾げる愛琉に一真たちは、呆れや後ろめたさなど様々な理由で何も言えなかった。
関係を持った男には代わりにいろいろしてもらったらしい。「忙しい」という理由で愛琉の代わりができない永琉の代わりに。
―― 最初から二人がちゃんとしてくれればこんなことにならなかったの。
悪びれもなく本心からそう言った愛琉は一真からしてみれば異星人のようでゾッとした。しかし、双子の両親の反応はそれとは違った。とんでもなかった。
―― そうです、永琉が悪いんです。
そんな母親の言葉を皮切りに、「永琉が悪い」「永琉がちゃんと愛琉の代わりをすれば」と父親と母親は交互に永琉を批難し、最終的には「だから愛琉の代わりに永琉が高松家に嫁ぐのは当然」だった。
―― 子どものしでかした馬鹿な行いは、その姉ではなくその親に償う義務があります。
だから私は愛琉さんで我慢しましたよ、と本人(愛琉)を目の前に十和は笑って言ってのけた。
家庭の中で自然と『上の子』が教育的な役割を持つ立場に立つことはある。しかし、子どもの教育等に対して責任があり生活習慣や自立心を育てる義務があると法律で決められているのは『親』。
十和は永琉が忙しい理由も説明した。
接待に忙しくて仕事をしない父親の代わりに白梅庵の仕事をし、エステだなんだと自分磨きに忙しく家にいない母親の代わりに梅宮家の仕事をし、衣装や料理だけ決めたらあとは面倒臭いと丸投げした花嫁の代わりに結婚式の準備をしていたから『忙しい』のだと。
両親は「愛琉のためだから」、そして愛琉は「体調が悪いから」で全てを永琉に押しつけた。
愛琉の代わりにやってきた永琉にかけられる言葉は「愛琉は体が弱いから仕方がない」。馬鹿の一つ覚えのようにそればかりなのは、愛琉ができなければ代わりに永琉がやってくれるから。そのほうが楽だから。ろくに考えず反射的にその言葉が飛び出るくらいに――。
―― 体調が悪いのか?
(あの間抜けな質問……仮に花嫁が救急搬送されても花嫁の姉が白無垢を着ているわけがないというのに……あの馬鹿な言葉を、永琉はどんな気持ちで聞いていたのか)
仕方がない、と言うほうはいい。
その場限りだから気軽なものだ。
でも言われたほうは?
――― いつまで愛琉は体が弱いなの。
――― もう、嫌……。
――― なんで全部私がやらなければならないの?
泣きそうな永琉の声が一真の頭の中をグルグル回る。
―――そんなに愛琉がいいなら……『愛琉』になってあげる。
(愛琉がいいわけではないと、俺はすぐに言うべきだった……愛琉になるなんて言わせず、言うべきだったんだ……永琉に、君が好きだって)
酔夫人のひとりごと
まるで梅雨のような天気ですね。
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