「僕と兄はこれまで後継者争いをしていたんです」
「でっかい商家なのね」
「僕は後継者になりたくなくて、後継者は兄になって僕は本当に嬉しかったんです」
ノアルドの処遇を盾に兄に交渉を持ち掛けていることを分かってほしいが、そんなことが商家であるのだろうかとノアルドが説明に迷ったとき――。
「分かった! 周りの人はあなたを人質にしてお兄様に好待遇を要求しているのね!」
「! なんで分かったんですか?」
「分かりたいと思ったから!」
(それで分かるものなのか!)
ババーンという効果音が聞こえてきそうなポーズで図星を突いてきたセラフィナにノアルドは心底感激した。
「尊い家族愛が理解できないのね……そういう奴ら、無人島に漂流して家族と強制的に離れ離れになって家族のありがたみを知るといいんだわ」
「そうですね」
「家族のありがたみを知ったのちに、妻に愛想が尽きたという理由で離婚を突き付けられ、子ども、特に娘に“なぜそこに居るのか”と虫を見るような目で見られ、愛人には毛がなくなった男性には魅力を感じないと別れを切り出されればいいのよ」
ありがたみを知ったあとなら攻撃力増すわよ。
そう笑うセラフィナの具体的な話にノアルドは若干引きつつ、エアロファーネ侯爵の薄くなった頭頂部をつい思い出してしまった。
「ノアはそういう男になっちゃだめよ」
「浮気、ですか?」
「そう、浮気はダメ。次にいくときは別れてからよ」
分かりましたとノアルドが頷くと、セラフィナは「いい子」と笑いながらノアルドの頭を撫でた。
「今日会った男と大違い。あの男、私の了承もなしに突然お尻を触ってきて、抗議したら“女として魅力があると思われたことを喜べ”ですって。肥満の中年に触らえて感謝しろと、冗談じゃないわ」
セラフィナが天に向かって腕を突き出す。
「あんな男、ガチムチの筋肉マッチョたちに囲まれた生活を二週間ほど送って改心したのち、自分の穢れた心を心底恥じて出家してしまえばいいのよ」
顔も知らない肥満の中年の未来を予言するような言葉にノアルドが慄いたとき、ふわりとワインの香りがノアルドの鼻を擽った。
(まさか……)
「……酔っているんですか?」
「ワイン一杯よ、酔っていないわ……酔っていないわよね?」
「さあ……僕には何とも……」
言動からは酔っている気もするなと思ったとき――。
「ノア」
優しい声が近くで聞こえたと思った瞬間、ノアの体は彼女に抱きしめられていた。
こんなに接近を許すなんて護衛は何をしていたのだろうと言う気持ちがわいたが、抱きしめられた心地よさに心が温かくなった。
それなのに――。
「ノア、私のことは忘れて……」
「え?」
「いや、それも嫌ね……そうだ。ミステリアスないい女がいたってことを覚えていてね」
(いや、本当に……なんで“ミステリアス”?)
「ノア!」
ハッとしたノアルドの視界一杯にルカヴィスの顔があった。
「どうした? 何があった?」
「いえ、何も……」
何もなかったのに、なぜかそう言うには違和感があった。
でも、ノアルドは言葉を濁したことを兄が心配しないように笑顔を向けた。
「人が多くて疲れたようです」
「すまなかった、ちょっと……な」
「仕方がありません、大事な用事だったのでしょう?」
ルカヴィスを呼びに来た男の切羽詰まった声を思い出したノアルドは気にしないように言い、そんなノアルドにルカヴィスは気まずい表情を向けた。
その表情が不思議でノアルドが首を傾げると、ルカヴィスは気まずそうに目を逸らした。
「それは直ぐに終わったんだけど……戻ってくる途中で知り合いに会ってな……そいつの用事で遅くなった」
“そいつ”と言ったときのルカヴィスの表情の変化に、ノアルドの直感が刺激された。
「女性ですね!」
ルカヴィスも二十六歳。
恋人の一人や二人いていい年齢。
(平民とは意外……でもない、か)
兄ルカヴィスに憧れている令嬢が多かったことをノアルドは知っているが、それと同時に彼女たちがノアルドの母である元王妃を怖がっていたことを知っている。
「兄上が頻繁に街に行かれたのは、その女性に会うためもあったのですね」
本筋を大きく迂回するような貴族の言い回しになれていたルカヴィスは、弟の直球の指摘に顔を赤くした。
「友人だ」
説得力皆無の表情にノアルドと、護衛の騎士たちは笑いを嚙み殺した。
「どんな女性なのですか?」
「見た目は美人、中身は変人……まあ、面白い奴だな」
ルカヴィスは視線を背後に向けた。
「いつもは能天気に見えるほど元気な奴なんだが、珍しく気落ちしていてな。聞けば変態中年のセクハラ被害にあったそうで、ワインを一杯奢ってやったんだ」
ワイン一杯で出来あがるんだから安上がりな女だ、と笑うルカヴィスにノアルドは首を傾げた。
セクハラ被害。
ワイン。
なんとなく覚えがあった気がするのに、ノアルドは思い出せなかった。
「ルカ様! ルカ様、どこにいらっしゃいますか、ルカ様!」
騎士団長の焦った声が聞こえて、ルカヴィスが「ここだ!」と声をあげた。
「報告いたします。先ほどエルダリス川で船の事故が起きました。事故を起こしたのはミレス島のノクティス・エリュシオンに向かう船で、それに乗っていたのがエアロファーネ侯爵閣下など国王派の貴族議員七名でして……」
「なんだって?」
「すでに船の事故と乗客の情報はほうぼうに知られてしまっていて……」
ノクティス・エリュシオンが、例えば飲食店とかなら良かったが、「夜の楽園」の名を戴くそこは会員制高級娼館。
そこに向かう船に乗っていたのだから、彼らがめくるめく甘美な一夜を目的としていたのは明白だった。
「船はミレス島の下流にあるヴァレン島に漂着したようです」
「ヴァレン島……よりにもよって……」
ヴァレン島周辺は不思議な風が吹き、多数の渦が不規則に発生しているため救助船が向かうのは難しい。
ただ、一カ月に一回くらいの頻度で島周辺の渦が一斉におさまる。
そのタイミングで救助船を出すしかないのだが、前回渦がおさまったとルカヴィスが報告を受けたのは約二週間前だった。
「二週間、彼らは無人島で……いや、いまどのかの隊がヴァレン島で野営訓練中ではないか?」
ルカヴィスの言葉に騎士団長が頷く。
「第四隊が訓練中です。予備の天幕もあるので、不便はありますが、生存できるかと――」
「ルカ様! ルカ様、どこにいらっしゃいますか、ルカ様!」
また自分を呼ぶ焦った声に、ルカヴィスは「次から次へと」とため息をついた。
「報告いたします。先ほどエルダリス川で船の事故が起きました」
同じ出だしにルカヴィスは首を傾げた。
「ノクティス・エリュシオンに向かう、貴族議員の乗った船の話なら聞いたぞ?」
「別の事故です。ノクティス・エリュシオンに向かっていた点は同じですが、ヴァレン島に流れ着いたのも同じですが、事故を起こしたのはカリオス商会の商船です」
ルカヴィスはため息をついた。
「船に乗っていたのは?」
「カリオス商会長と、他二名です」
「計十名の保護なら、かなり窮屈な思いをするだろうが、予備の天幕でまかなえるだろう。問題は食料だな」
「それは問題ないと思われます。カリオス商会の船には、ノクティス・エリュシオンに届ける予定の食材と調味料、さらに酒まで大量に積まれていたそうです」
ルカヴィスの隣で騎士団長が「二週間、毎日宴会していそうだな」と呟いた。
(そう言えば――)
「カリオス商会、だったか?」
「はい。ご存知なのですか?」
「少し、な……騎士たちが同伴し、飢え死にする心配がないなら、二次被害を出すわけにもいかないから渦がおさまるのを待って救助にあたろう」
ルカヴィスは意地の悪い笑みを浮かべる。
「美しい夜の蝶との一夜を夢見て旅立ったのに、ガチムチのマッチョたちの世話になり」
さっき酒場で会い、ワインを奢った女が言っていた「家族のありがたみ」という言葉をルカヴィスは思い出した。
(その続きが――)
「家に帰った彼らを待つのは、奥方からの離縁状、娘からの軽蔑、そして愛人からの別れ」
騎士団長は顔を青くした。
「……次の休みは、妻孝行、娘孝行しようと思います」
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