昼間のやり取りで一度は納得したものの不安は拭えず、嫌な予感がどんどん大きくなったノアルドは兄の離宮に行くことに決めた。
慎重に周囲を確認しながら廊下を進む。
そして渡り廊下をこえて離宮に入ったとき、ノアルドは周囲の違和感に気づいた。
誰もいないのだ。
警備の騎士も。
夜番の侍女も。
夜の静けさの中をノアルドは駆けた。
きっと兄は騎士たちを連れてどこかに出かけているのだ。
ノアルドはそう思おうとした。
兄の寝室の扉が見えた瞬間は僅かにホッとしたが、薄っすら扉が開いたままであることにノアルドの心臓は嫌な音をたてた。
(兄上は、急いでいたに違いない)
自分が知らないだけで、王都で何かイベントでもあるのかもしれない。
「兄上…………失礼します」
(返事がないのは出かけているからだ)
秘密通路を使ってルカヴィスは街にお忍びで出かけていることも多い。
いつかノアルドも連れていってやると笑っていたルカヴィスの顔がノアルドの頭に浮かんだ。
部屋の扉を開けてそっと中を覗き込み――息が詰まった。
「兄上!」
倒れているルカヴィスの姿に、叫びたい衝動がノアルドの喉を駆け上がる。
ノアルドは必死にその衝動を抑え込む。
いま、声をあげてしまえば何が起こるか分からないから。
正確には、自分の母である正妃が何をするか。
ノアルドは震える手を握りしめ、父王カリスティオンの元へ向かった。
「……よくやった、ノアルド」
カリスティオンの労う声に混じる感情。
困惑。
焦燥。
苦悩。
ノアルドは胸が痛くなる。
ルカヴィスは密やかにその身を王の部屋に移された。
今後は近衛隊長に護衛されながら国王の主治医である典医の治療を受ける。
現状でできる最善の策が取られていることはノアルドにも分かっている。
でも、典医の言葉が胸に刺さっていた。
未知の毒。
今夜が峠。
そして――かなり危険。
ノアルドが安心などできるわけもなく、この事態は自分のせいという事実がノアルドにのしかかっていた。
(僕が……僕のせいで……兄上は……兄上が……)
母親が何かするとルカヴィスに言ったものの、心のどこかで「まさか、そこまで」とノアルドは思っていた。
母親のことを理解していなかった。
(いや、違う)
そういう人なのだと、理解したくなかった。
裏切られた気持ちになればよかったのに、それすらない。
ノアルドは自分が母親に対して信頼も、期待さえもしていなかったことに気づいた。
(それなのに……)
「母親」という書類上のものにしがみついた。
その結果が、いま。
王妃といえどその権力を支える最も太い柱はノアルド。
自分がささなければ。
とうに自分が見切りをつければ。
(兄上に毒が盛られることはなかった)
気づくとノアルドは一人で見知らぬ風景の中にいた。
遠くに城が見えて、城の外だと分かった。
すぐ傍には古い木戸。
清潔だが人通り多くない路地。
(兄上が教えてくれるはずだった出口……)
ノアルドはあえて暗いほうに進む。
町の人々の、笑い声、怒鳴り合う声が遠くなっていく。
暗いけれど、そこかしこから人の気配はしている。
ささやかな話し声。
低く響く落ち着いた笑い声。
その静寂は、どこか城に似ていた。
だからなのか。
初めて、一人で、しかも夜の、この街歩きをノアルドは怖いと感じなかった。
歩きながら周辺を見渡して観察している自分がおかしく、こっちじゃないとか、あっちかなとか、まるで何かを探しているようで――。
「あなた、迷子?」
突然自分に向かって声がして、ノアルドは驚いて周囲を見渡した。
「上よ」
笑う声に誘われて上を見ると、きれいな女性がいた。
「こんな時間に子どもが一人で歩いていては危ないわよ?」
“子ども”を心配する言葉にノアルドは兄を思い出した。
誰もがノアルドを“第二王子”として扱う中、ルカヴィスだけはノアルドを“子ども”や“弟”と扱ってくれた。
「家出中?」
「……多分」
(多分って、何を言っているんだろう……)
「それなら、うちの子になる?」
「私の子というのは無理があるわね。弟、私の弟。どう?」
“弟”と言われて浮かぶのは、いつも頼りにしている強い兄が倒れている姿。
灯りのついていない暗い部屋で。
ただ一人で。
(兄上は……)
「あーあ」
残念そうな声にノアルドが顔をあげると、女性は楽しそうに笑っていた。
「その顔、私の弟にはなってくれないみたいね」
「ごめんなさ……え?」
舞い降りてきたのは白くて、柔らかい布。
「ショール?」
「それ、お気に入りなの」
女性はニッコリと笑った。
「小さな紳士さん、ここまで届けてくださる?」
階段で三階まで昇ると、女性が扉の前で待っていた。
「ありがとう」
女性はショールを受け取らず、ノアルドの手を引っ張って部屋の中に入れた。
(油断した!)
逃げなくてはと、ノアルドは部屋から出ようとして、下の酒場から聞こえてきた男たちの笑い声に体が震えた。
「どこから来たか分からないけど、ここまでよく無事だったわね」
女性はからかう様に、ノアルドの額をツンッと突いた。
「あなた、もう誰かの弟なのね。お兄さん? お姉さん?」
「兄です」
彼女の空色の瞳は全てを見透かしているようで、張り詰めていた気持ちが緩んで視界が滲んだ。
「いいお兄さんなんのね」
「……はい」
女性は微笑む、とても優しく。
「ソファ貸してあげる。ちゃんと寝て、元気な顔でお家に帰りなさい」
「……はい」
「素直な子は好きよ。……義弟、いいとおもったんだけどなあ」
「ごめんなさい」
女性は「即答」と言って笑い、その優しくて、きれいで、温かい気持ちになる笑顔を見ながら、この女性の“おとうと”になるのも悪くないなとノアルドが思ったとき——。
「義弟、おとーと、おっとっと?」
「……酔っているんですか?」
ノアルドは机の上にあるワインのボトルに気づいた。
「今日、誕生日なの。誕生日おめでとう、私」
「……おめでとうございます」
「プレゼントに“おとうと”、いいと思ったんだけどなあ……でも、私より良いんだから、とてもいいお兄さんなんだねえ」
自己評価が高いと感じるものの、嫌な感じは一切ない。
ノアルドは両手を組んで祈るポーズをした。
「お姉さんに……」
「セラフィナよ」
名前で呼んでと言うような女性の態度。
普段なら名前を呼んでほしいなんて、仲良しアピールで不快なお願い。
だけど彼女、セラフィナのお願いは聞いてあげたくなった。
「セラフィナさんに、僕のようないい“義弟”ができますように」
少しふざけたノアルドの態度に女性は楽しそうに笑う。
そして「お返し」と彼女も両手を組んで祈るポーズをした。
「あなたは?」
「ノアル……ノア」
ノアルドの言葉にセラフィナはにっこり笑う。
「ノアのお兄さんが元気になりますよーに! それじゃあ、景気づけにワインをもう一杯」
「……もう止めましょう?」
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