「永琉さんではなく愛琉さんと結婚したいです」
永琉が高校を卒業したら俺たちの婚約を発表すると母さんに言われ、婚約発表日の二週間前に俺は二人の父親である梅宮家の当主にそう願い出た。
「一真さんが永琉と結婚したらお義兄さんって呼ばなきゃ」と寂し気にいった愛琉の姿に奮い立ちそんな行動に出た。
梅宮家は全員がその場にいて、二人の祖父にあたる先代当主は反対したが、愛琉と二人の両親は俺の言葉に大喜びだった。
「永琉は下りなさい」
母さんに妨害されないよう先手を打たなければいけないと気持ちが先走り、永琉に対する礼義に欠いていたと気づいたのは先代当主が永琉を気遣ったときだった。
「みんな揃って永琉の何を見ているのやら……高松さん、私も失礼しますよ」
それまでは「一真君」と親しげに呼んでくれていた彼は、さっきの母さんと同じ怒りの先にある呆れた目で俺を見ていた。
その後、永琉は先代当主と共に北関東にある別宅に移り住み、俺が永琉と再会したのは三年前の彼女の祖父の葬儀だった。
故人の遺志で、異例ながら喪主は永琉が務めた。
愛琉は「体調がよくない」を理由に、当主夫妻は「愛琉が心配」を理由に早々に斎場から出ていった。
そんな身内の振る舞いがあっても、永琉は凛とした姿でその場に立ち続け、参列者からは「永琉さんがいれば白梅庵は安心だ」という声が聞こえた。
「先代の当主夫人の葬儀だって、彼女を慕っていた永琉さんが一番泣きたかったはずよ」
「母さん……」
「私の目には大好きなお祖母様を安心させたい一心で気丈に振る舞っていただけに見えたけど……あなたにはどう見えたのかしらね」
俺は何も言えず、愛琉の婚約者としてそこにいる俺は独りで立つ永琉に近づくことはできなかった。
「一真、梅宮が今日午後三時に来ることになっている。お前も同席してくれ」
「分かった」
「白梅庵の社長が分家の橘広弥(ひろや)氏に代わることについて……彼女はなんと?」
「問題ないそうだ。母さんが聞いたから永琉の意見だ」
「そうか……お前は彼と、その、良好にやっていけるか?」
父さんが気まずそうなのは、橘広弥がゆくゆくは永琉と結婚して梅宮家に婿養子に入る予定だったからだろう。
「明確な約束があったわけでもないようだし、みんな大人だから大丈夫だろう」
大丈夫になるしかない。
始まりは祖母たちの友愛だったかもしれないが、二十年続いている梅宮への支援額はためかなりの金額になっており、いまの梅宮ではそれを賠償できない。
だからあの日、永琉は白無垢を着ていた。
俺の花嫁になれなくなった愛琉の代わりに。
永琉の怪我が命に別状はないというところで、俺たちは病院の会議室で事情聴取を受けることになり、そこに愛琉も呼ばれた。
愛琉の腹は膨らんでいて、妊娠五ヶ月弱だと言われた。
母さんは俺に目線で心当たりを問うたが、俺に心当たりはない。
俺は愛琉を抱いたことがない。
愛琉は俺と関係を持ちたがったが、”体が弱い”愛琉を大事にしたい思いから結婚するまではと俺は愛琉を抱かなかった。
最初の頃は、そう本気で思っていた。
でも徐々に愛琉への想いは冷めていき、ここ数年は婚約者としての義務感しか抱けない愛琉との関係を進めずにすむ良い言い訳にしていた。
そんな俺の態度が愛琉の浮気の理由なら、申し訳なさがあったかもしれない。
でも、浮気の理由を尋ねれば「浮気なんてみんな普通にしているじゃない」という呆れたものだった。
「二人とも“忙しい”って言って私のお願いを叶えてくれないんだもん。それなら代わりに他の人にお願いするしかないし、お父さんたちだってみんな何かの代わりをしてほしいから浮気をしているんでしょう?」
つまり、「あれがほしい」「これをやって」という愛琉のお願いを“忙しい”永琉が叶えられないから他の男にやってもらって、「抱いてほしい」という愛琉のお願いを“忙しい”俺が叶えられないから礼を兼ねてその男と関係をもっていたというのだ。
「最初から二人がちゃんとしてくれればこんなことにならなかったのに」
悪びれもなく本心から愛琉はそう言っていた。
この瞬間、愛琉に対して抱いていた情は完全に冷め、全てのそういう愛琉にゾッとした。
「永琉が忙しいなんて言わずに愛琉のお願いを叶えていれば」
「そうだ、永琉が悪い。永琉は姉なのです。だから永琉に責任を取らせるのは当然ではありませんか」
そして、梅宮の当主夫妻の言葉には完全に呆れた。
「愛琉さんのしでかしたことの責任は、姉の永琉さんではなく親のお二人がとるべきなのでは?」
ずっと黙っていた母さんの言葉に梅宮の当主夫妻は驚いた顔をしたが、二十年以上子どもの親をやっていて今さらと俺も驚いた。
家庭の中で自然と兄や姉が「教育的な役割を持つ立場」に立つことはあるものの、子どもの教育等に対して責任があり、生活習慣や自立心を育てる義務があると法律で決められているのは「親」だ。
「高松の奥様、愛琉は体が弱いのですから永流が代わりにやるべき……」
「確かに永琉さんは愛琉さんの代わりにいろいろやってくださっていましたよ、だから“忙しい”なのです。それならば梅宮の奥様が代わりにいろいろやればよかったのでは?」
言外に『その間にあなたは何をしていたのです?』という母さんの問いに梅宮夫人は不意っと視線を逸らした。
「愛琉さんのユニークなお礼の仕方はどなたの教育なのでしょうね」
「あ……愛琉は体が弱いから……仕方がないから……」
愛琉は体が弱い。
だから仕方がない。
みんな、馬鹿の一つ覚えでそればかり。
だって、それのほうが楽だから。
俺も二言目にはそう言っていた。
ろくに考えもせず、反射的にその言葉が飛び出るくらいに。
言ったほうはいい。
でも言われたほうは?
ーーー体が弱いから、仕方がないってわけ?
泣きながらそう言った永琉。
ーーーそんなに愛琉がいいの。
あの言葉を俺は直ぐに否定するべきだった。
俺はいつもあとで後悔する。
なんで言わなかったんだろう。
永琉に、君が好きだって。
婚約破棄をしたのは自分だから?
図々しいと罵られるのが怖かった?
そう、軽蔑されて嫌われるくらいならと俺は臆病風に吹かれた。
その結果がこれだ。
ーーーそれなら愛琉になってあげる。
そうしてあの日、永琉は俺の前からは消えた。
「どうしたの、一真さん?」
永琉の淹れてくれた俺好みのコーヒーを飲みながら、左利きの永琉が右手でフォークを使うのを眺める。
ーーー永琉さんはもともと右利きよ。練習して左も使えるようになった感じね。
左を意味するLeftのL(永琉)。
右を意味するRightのR(愛琉)。
それが二人の名前の由来。
ずっと利き手ではなかった右手のぎこちない動きに、これまでの永琉の苦しみの片鱗が見える。
「一真さん、明日の朝もパンでいいの?」
永琉が退院して、この家で暮らすようになって以来、うちの朝食はいつもパン。
松花堂の商売繁盛を願った和食がそれまでのうちの朝食で、それを知っているから永琉は首を傾げる。
「フォークとスプーンは左手でなんとか使えるけれど、箸はまだまだだから」
永琉が愛琉の顔で首を傾げる。
「右手で食べればいいのに、なんで?」
その答えは、まだ言わない。
その答えをいつか、永琉、君に話せる日を俺は夢に見ている。
本編 fin
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