毎朝、目を覚ますたびに俺は思う。
これが夢だったらいいのに、と。
「おはよう、一真」
「おはよう、母さん。父さんも、おはよう」
「……ああ」
母さんの向かいの席に座ると、廊下のほうからパタパタとスリッパの軽快な音が聞こえる。
「おはようございます。遅くなって申し訳ありません」
大きなお盆を抱えて部屋に入ってきた永琉に母さんが優しく微笑む。
「大丈夫よ、永琉さん。今日の朝ごはんも美味しそうね」
「ありがとうございます。直ぐにお茶をお持ちしますね」
「……おはよう、永琉」
俺が声をかけると、永琉の表情が愛琉になる。
「おはようございます。ふふふ、今朝はいつもより寝坊助さんですね。春眠暁を覚えずだから仕方ありません。コーヒー、濃い目に淹れてきますね」
パタパタと再びスリッパを鳴らして軽快に部屋を出ていく永琉。
その音が聞こえなくなると、母さんが盛大に溜め息を吐いた。
「二人とも一体何が不満なんです? あなたたちの念願の愛琉さんではありませんか」
結婚式の日、控室を出たところを永琉は暴漢に襲われた。
永琉は頭を殴られて意識を失い、すぐに病院に運ばれた。
三針縫う大怪我だったが、命に別状はなく、その日のうちに目を覚ますと言われて安堵した。
それなのに――。
目を覚ました永琉は、警察の事情聴取のときや母さんと話すときは永琉だったのに、母さんが席を外すと愛琉になった。
「えへへ、心配かけてごめんね」
愛琉の話し方。
愛琉の表情。
愛琉そのものになった永琉の姿に、「愛琉になってあげる」という言葉が何度もリフレインして、ゾッとした。
永琉の様子から精神科医が呼ばれ、播磨先生は永琉の症状を「自己同一性の混乱」と診断した。
「永琉さんは愛琉さんに対して強い憧れがあるため“自分が誰であるか”という感覚が揺らぎ、衝突を避けるために“愛琉さんを望む人”に対して自分が愛琉さんだと思い込んでいるようです」
愛琉であることを望む人は、高松家の場合は俺と父さん。
母さんとお手伝いの長嶋さんに対しては永琉は永琉のまま。
播磨先生の言葉に「望んでいない」と反論したが、「永琉さんがそう思っている以上は仕方がない」と言われてしまった。
新婦である永琉が怪我をしたため結婚式は中止になったが、俺と梅宮家の娘が結婚することは何年も前から決まっていたこと。
いずれ姻戚になるということで高松家はずっと梅宮家と白梅庵を支援してきた。
だから俺と永琉は籍を入れた。
揃って書いた婚姻届けには永琉の字で永琉の名前が書かれていたのに、永琉が俺に向ける笑顔は愛琉のものだった。
俺はどこで間違えたのだろう。
間違いがあり過ぎて分からない。
もともとは永琉が俺のお嫁さんになる子だった。
梅宮が経営する老舗和菓子屋の白梅庵の運営がやや傾いてきていて、俺の祖母が親友である梅宮の先代当主夫人を助けたいという思いから始まったことだった。
俺は小三、永琉は小一。
この頃の永琉の印象は、元気な子とか、よく笑う子とか、そんなところだった。
俺も当時は小学生で、学区が違ったので「たまに会う年下の女の子」でしかなく、婚約など想像もつかなかった。
愛琉と初めて会ったのは先代当主夫人の葬儀、俺が中一……いや春だったから中二になったばかりか。
愛琉は葬儀の間ずっと泣いており、体調を崩して母親と離席した。
永琉は父親の隣に立ち、静かな表情で落ち着いてずっと前を見ていた。
前評判の病弱というバイアスもあって、愛琉はか弱くて誰かが守ってあげなければいけない女の子で、それに対して永琉は強くて誰かが守らなくても大丈夫な女の子だと俺は思った。
それが大きな勘違いとも知らずに。
「私はただ……」
父さんの声に俺は顔をあげた。
「一真まで私のような気の強い女と結婚したら気の毒だと思ったのでしょう?」
「それは……」
「いまさら可愛げなど私には無理です。ですから、いつでも離婚して差し上げると申したではありませんか」
「おまえ……」
母さんの怒りを通り越した呆れた声音に応える父さんの声は困惑に満ちている。
それはそうだろう。
母さんは父さんがいままでいくら浮気をしても離縁を切り出さなかったのに、ここにきて突然の離婚宣言だ。
母さんが初めて父さんに離婚を提案したのは俺と永琉が入籍した翌日だった。
「一真が永琉さんと結婚してくれたので、高松家の未来に憂いはありません。一族も次期当主の一真を支えてくれるでしょう。体の弱い愛琉さんには任せられないと、私は死ぬまで高松当主夫人でなければと思っていましたが、人生は何があるか分かりませんね」
燦々と朝日が差し込む気持ちのいいダイニングに母さんの淡々とした言葉だけが響く。
「これまでの縁もありますし、次があるわけではないので、離婚するかどうかはあなたが決めてくださいな」
永琉の足音が聞こえたため母さんは会話を終え、さっきまでの表情が嘘のような優しい笑みを浮かべた。
「お義母様、お茶です」
「ありがとう、永琉さん。冷めてしまうから永琉さんも朝ご飯を食べてしまいなさい」
「一真さんのコーヒーを淹れたらそうしますね」
永琉の言葉に母さんの目が揺らいだが、直ぐに何事もなかったように微笑み、パタパタとスリッパを軽やかに鳴らしてダイニングを出ていく永琉を見送った。
「私たち、馬鹿みたいね」
そう呟いた母さんは勢いよくお茶を飲み干すとダイニングを出ていった。
父さんには視線ひとつ向けなかった。
永琉はお盆にコーヒーが入ったカップをふたつ乗せて戻ってきた。
「お義母様に頼まれてお義父様の分も淹れてきましたよー。それにしてもこんな苦いのにコーヒーが好きなんて信じられない」
「それならどうして淹れ方や俺たちの好みが分かるんだい?」
永琉は愛琉の顔でニコッと笑う。
「私が一真さんのことを大好きだからだと思うわ」
これは愛琉としての言葉?
それとも永琉としての言葉?
永琉は知らない。
愛琉はね、「コーヒーなんて興味はない」とコーヒーの淹れ方を知らないんだよ。
「……確かに苦いな」
「俺もとても苦いよ、父さん」
「ほら、やっぱり」
何も知らない永琉は愛琉の顔で無邪気に笑う。
俺はコーヒーが好きな父さんからコーヒーの味を教わった。
そんな父さんのためにコーヒーの淹れ方を覚えた母さん。
そんな母さんから永琉がコーヒーの淹れ方を教わったのは、俺が十八歳を迎える誕生日の少し前のこと。
それを知ったのは結婚してからだったけど。
コメント