「近隣各国の信頼を失い内政もいまだ不安にあるこの国にとって、王太子であるあなたが妃に迎えるべき方は――」
女性が列挙した家名にマルセラは感心した。
マルセラにとっては貴族の情報収集(醜聞含む)は趣味を兼ねた仕事であり、趣味の新聞購読と併せて鑑みれば女性が列挙した家名は“王太子の後ろ盾”によい家ばかりだった。
(なかなか現実が分かっているお方だわ……それに対して……)
「それは大丈夫だから」
(……どこぞの詐欺師かしら。先ほどから根拠も述べず「大丈夫」しか仰らない)
「ですから、なにが大丈夫なのか根拠をお示しください」
「……まずは湯浴みをしてこい。マルセラ侍女長を呼んだから」
「侍女長!? そんな大物……いえ、そのような方をお呼び立てするなんて」
(思っていることが言葉と顔に出る素直な方だわ)
ルカヴィスには幸せになってもらいたいと思う。
マルセラ個人として、この女性は好ましい人物だと思う。
でも王子妃として見ると危うさが多くて――。
「マルセラ、思うこともあるだろう。言いたいことも分かる。でも説明はあとだ」
「殿下?」
「セラフィナを湯殿に連れていってくれ。酒場でエールを浴びてしまったから、髪の毛と背中を念入りに洗ってやってくれ」
言葉だけなら、これから寵愛を与える女性の準備の指示。
でもにルカヴィスの声に欲はない。
欲がないどころか……「乳母は俺の味方だよな?」と期待する幼い頃のルカヴィスを彷彿される声と目だ。
「入浴の介助はマルセラ一人で。脱衣所にも湯殿にも誰も置くな。誰にもセラフィの肌を見せるな」
(……ある程度は仕方がないとはいえ、独占欲が強すぎません?)
どちらにせよ、マルセラにできることはルカヴィスの指示に応えること。
躊躇するセラフィナを湯殿のある棟に案内する。
躊躇する気持ちも分かる。
湯浴みをするとはそういう意味と捉えるのが自然なのだから。
マルセラから見るにルカヴィスにその気はないように思えたが若い男女のこと、なにかが転じてそうなったときに責任を負えないので黙っていた。
「服を脱ぐのは、一人でできるので」
侍女とはいえ他人の手を借りて服を脱ぎ着するのに躊躇があるのだろう。
セラフィナの心境を理解できたため、マルセラは湯殿でセラフィナを待つことにした。
そして――。
「それは神……きゃあっ!」
「侍女長様っ!」
湯の中に落ちたマルセラにセラフィナは慌てたが、マルセラも動揺した。
足を動かしてもいないのに滑って、しかも湯の中に落ちたのだ。
人生で初めての大失態。
あり得ないこと。
ではなぜその「あり得ない」が起きたのか。
「大丈夫ですか?」
理由は……セラフィナしか考えられない。
だってセラフィナの背中には――。
(あ、黙っていたほうがよさそう)
セラフィナの様子にマルセラは、人生の経験値をもってして理解した。
触らぬ神に祟りなし、だ。
何も言わないほうがいいと告げる己の直感にマルセラは従った。
「あの……侍女長様、お着替えなさったほうが……お風呂くらい私は一人でも……」
「お気遣いなく」
全てを理解したマルセラは態度と表情だけは必死に冷静を保ちつつも、いまにも鼻歌を歌わんばかりの上機嫌でセラフィナの入浴を介助した。
びしょ濡れのことなど一切気にならなかった。
びしょ濡れのまま、マルセラはセラフィナの入浴を介助した。
びしょ濡れのまま部下に持ってこさせた服を吟味して、首までしっかり詰まったドレスを着させたところで信頼している双子の侍女にバトンタッチした。
二人から寄せられる「これから伽ではないのですか?」「もしかしてもう終わったんですか?」という視線は無視した。
威厳を損なわない態度と速度でマルセラは自室に戻り、濡れた服を手早く脱いで新しいお仕着せに着替えるとルカヴィスのもとに、また威厳ぎりぎりの速度で突撃した。
「何を見た?」
マルセラが来ることが分かっていたルカヴィスは人払いをし、一人でいた。
「何を、と!? あれは神の愛し子の証ではございませんか」
マルセラが動揺して振るえる声で詰め寄ると、ルカヴィスは満足したように頷いた。
「セラフィがいないところならば“神の愛し子”のことを伝えられるのか」
「……どういうことでございますか?」
「セラフィに、彼女が神の愛し子であることを教えようとすると神の鉄槌が下る。比喩ではなく本当に……すでに体験したようだが?」
これか、とマルセラは自分の濡れた髪を見た。
「神の警告だ。俺も、まあ、それなりのものを体験した。神々にとって我々は、我々にとっての蟻と同じ。扱いは気分次第のようだが、踏みつぶすほうが圧倒的に多いだろうな」
面倒臭がりな気がするし、とまるで知っているかのような口ぶりのルカヴィスを不思議に思ったが、マルセラの人生の経験値が「知らないほうが幸せ」と言っていたので黙っていることにした。
(神の愛し子が取扱要注意なわけだわ)
マルセラは冷たいもので背中を撫でられたような感覚があった。
(世界を変えるほどの強大な力の持ち主……なのよね?)
小説の中でだと仰々しい表現をされ畏怖の対象となるキャラクター。
それなのに、マルセラの中にセラフィナに対する恐怖心はない。
だから神の愛し子なのだ、とマルセラの腑に落ちた。
まだ会って間もないので感覚的なものだが、セラフィナに危険はない。
最低限、自分にとって。
なぜなら、神の鉄槌を食らう理由がない。
そんな恥じる行いをしていない自信がある。
だからマルセラはセラフィナを「危険」と感じない。
「随分と落ち着いているな」
ルカヴィスの問いにマルセラは自分の出した答えを述べると、ルカヴィスはふはっと笑った。
「そういう者しか愛し子の周りにはいられないのだろうな」
「そうやって何も知らないまま神の力をふるい続ける……つまり、無自覚チート」
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