朝の食卓に響く笑顔とコーヒーの香り。けれどその笑顔は誰のもの? “役割”に縛られた家族の静かな歪みが、永琉を飲み込んでいく。
身支度を整えて一真が一階のダイニングに入ると、いつも通り定位置に両親が座っていた。
「おはよう、一真」
「おはよう。父さんも、おはよう」
「……ああ」
五人掛けのテーブル。上座である家長の席に父親の伸二が座り、その右に母親の十和。そして十和の向かいに一真が座ったとき、廊下のほうからパタパタとスリッパの軽快な音が聞こえてきた。
「おはようございます」
大きなお盆を抱えて永琉がダイニングに入ってくる。
「遅くなってすみません」
「大丈夫よ。今日の朝ごはんも美味しそうだわ」
十和の言葉に永琉は嬉しそうに微笑み一真を見る。永琉の表情が変わる。すうっと静かに『永琉』は消えてにっこりと笑う『愛琉』になる。
「おはよう。今日はいつもより寝坊助だね」
口調も変わる。
「……おはよう」
「まだ寝惚けてる? コーヒー、濃い目に淹れてくるね」
パタパタと再び軽快に部屋を出ていく永琉を3人で見送り、永琉が台所に入った音がしたところで十和が大きな溜め息を吐いた。
「二人とも一体何が不満なんです? あなたたちが願った愛琉さんではありませんか」
◇
あの日式場の控室を出たところで永琉は男に頭部を殴られ、意識を失った永琉はすぐに病院に運ばれた。
幸いなことに脳に異常はなかった。花瓶で殴られたときに切れた額の傷を三針縫ったものの、永琉は夜に目を覚まし、薬で少し朦朧としつつも警察の質問に答えられるほどしっかりしていた。
永琉は犯人の男に心当たりはなかった。
事情聴取を受けたあと、永琉が疲れているようだったのでドクターストップがかかり、面会時間も過ぎていたので一真たちは永琉の病室を出て梅宮家が揃っているという会議室に向かった。
エレベータのところで一真はスーツケースを永琉の病室に忘れてきたことを思い出し、両親には先に行くように伝えて一真は一人で永琉の病室に戻った。永琉はぼんやりと窓の外を見ていたが、音に気づいて一真を見た。そして笑った。
その笑い方は『愛琉』で、一真は衝撃を受けた。
それは表情だけでなく、「心配かけてごめんね」という口調も『愛琉』で、一真の頭の中で「愛琉になってあげる」という永琉の声がグルグル回っていた。
自己同一性の混乱。
これが永琉の受けた診断。
病院で紹介された精神科医の播磨医師によると、愛琉の代わりとして求められ続けたことで永琉の中の「自分は永琉である」という認識が危うくなっていたところに花嫁の変更という心理的負担が重なり、そこに脳への衝撃が加わったため「愛琉になればいい」と思うようになってしまった。
しかし『愛琉』は一真と、一真の父・伸二(しんじ)の前だけ。
それについては二人は明確に言葉で愛琉を求めたからではないかと播磨医師は推測した。
永琉のケガにより結婚式は中止となったが、一真と永琉は入籍した。
二人には結婚せざるを得ない事情があったからだ。
一真が生まれたときから梅宮の孫娘と結婚することは決まっており、小学3年生のときに一真は永琉と顔合わせをした。
十和は永琉を『許嫁』として紹介したが、「この子がお嫁さん」と思いつつも子どもだった一真はあまりピンときていなかった。相手が幼稚園児だから仕方がないともいえる。子どもの4歳差は大きい。
永琉が小学生になって多少交流することもあったが、学区が違ったためたまに保護者同伴で会うくらい。相手は小さな女の子だから話すくらいしかできなくて活発な一真には退屈な時間だった。嫌いではなかったが、大して興味もなかった。
一真が『女の子』として興味を持ったのは愛琉のほうだった。
一真が中学2年生のときに双子の祖母が亡くなり、両親に連れられて参加した葬儀で一真は初めて愛琉に会った。永琉に双子の妹がいることは知っていたが、体が弱くよく寝込んでしまうのだと聞いていた。
葬儀中、双子の様子は対照的だった。愛琉はずっと泣いていて、永琉はずっと静かに前を見ていた。泣き続けて体調を崩した愛琉は母親と途中で席を離れた。病弱という前評判も加わり、一真は愛琉を守ってあげたいと思った。
愛琉は一真が初めて恋をした女の子だった。
◇
「一真まで私のような気の強い女と結婚したら気の毒だと思ったのでしょう?」
十和の批難の声に一真が顔を向けると、目が合った伸二は気まずそうに目を逸らした。そんな夫の態度に十和は再び溜め息を吐いた。苛立った溜め息ではなく、諦めがこもったものだった。
「ですから離婚しましょうと言ったのです。『甘え』や『可愛げ』を私に求められても困ります。私はそのように育っておりません」
伸二にはずっと愛人がいる。可愛げが欲しければ他の女を選べ、とは愛人のところに行けという意味だ。
愛人といっても一真の知る限り同じ相手とずっとというわけではない。愛人に対して情をもっているわけではなく、愛人という存在で遊んでいるだけだと一真は思っている。そんな愛人を妻である十和がどう解釈し、どう受け入れているのかを一真は知らない。ただ一真が知る限り十和は伸二の愛人を黙認し、夫の求めることを分担する形で愛人と共存しているようだった。
十和が愛人のことを指摘し、かつ離婚という言葉を出したのは一真と永琉が入籍した直後だった。その理由は――。
「愛琉さんには高松家を任せられませんでしたけれど、永琉さんなら安心して任せられますもの」
高松家の直系は十和で、唯一の子どもとして十和は伸二を婿に迎えて『高松夫人』になり、後継ぎである一真を産んで育てて、一真が大人になったら『夫人』の役割を次に託すのだと十和は決めていた。
十和にとって『夫人』は愛される『妻』ではなかった。
「一真の子の代まで『夫人』でいる覚悟でしたが、人生は何があるか分かりませんね。これまでの縁もありますし、次の相手がいるわけでもないので離婚するかどうかはあなたが決めてくださいな」
燦々と朝日が差し込む気持ちのいいダイニングに十和の淡々とした冷たい言葉だけが響く。男二人には何も言えることがなく、反応にさえ困っていると永琉が十和の湯飲みを持ってダイニングに戻ってきた。
十和は先ほどまでの表情が嘘のように優しい笑みを浮かべる。
「ありがとう。冷めてしまうから永琉さんも朝ご飯を食べてしまいなさいね」
「一真さんのコーヒーを淹れたらそうしますね」
永琉の言葉に十和の目が揺らいだ。直ぐに何ごともなかったかのように表情を戻したが、心は追いつかなかったようで……。
「私たち、馬鹿みたいね……」
永琉の背中を見ながら十和が零した言葉の拾い方が一真には分からず、かける言葉を探している間に十和は一気に茶を飲み干すと「お先に」と一言告げてダイニングを出ていった。
「お義母様に頼まれてお義父様の分も淹れてきました」
しばらく男二人でいたダイニングに戻ってきた永琉の手には芳醇なコーヒーの香りを漂わせたカップが2つ。
「そうか、ありがとう」
「いいえ。はい、こっちは一真さんの分」
「……ありがとう……どうした?」
自分をジッと見ている永琉に気づいて一真は首を傾げた。
「そんな苦いものがが好きだなんて信じられないなって」
「……飲んでみる?」
愛琉はコーヒーは苦いから嫌だと言って甘いミルクティを好むが、コーヒーを飲む永琉の姿を一真はときおり見かけていた。
「やだ、何を言っているの。そんな苦いの、好きじゃないわ」
「……そうか」
「でも一真さんにコーヒーを淹れるのは好き。お義母様に一真さんの好きなコーヒーの淹れ方を教えてもらって、一生懸命練習したんだから」
永琉の退院前夜、永琉の字で記入された婚姻届を見るだけでペンを持てずにいた一真に十和がいれてくれたコーヒーは初めて見るマグカップに入っていた。
捨てようか迷っていたのだけれど、と十和はカフェオレ色に金粉を散らしたような上品な和紙でできた紙袋を一真に渡した。中に入っていたのは深煎りと浅煎りの二種類のコーヒー豆と誕生日カード。
【これからもよろしく】
永琉の字に驚いて一真が顔をあげたら、17歳の永琉が一真のために用意したものだと教えてくれた。
永琉に請われて一真の好きなコーヒーの淹れ方を教えたのだと。十和は伸二の母親からそれを教わったから、自分の役割だと思ったのだと。
(俺が知らないなら、知らないでいい……知らないほうがいいと母さんは思ったんだ。自分がそうだったから……)
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